青函連絡船空襲

『空襲警報ハツレーイ』って船全部に伝わったものだから、見張りに皆起きて、ブリッジで見張りしてあった。もちろん船長も上がってきておったし、途中で乗せた中尉も軍刀前にして、きょろきょろしてあった。

何分かして、佐藤って若いセーラーが『船長。なんだか爆音聞こえますよ』って。でも船長もわしらも何も聞こえないんだよ。ただエンジンの音がゴンゴンゴンゴンって聞こえてるけれども...。それでも『いや、船長。爆音の音がします。飛行機の爆音の音聞こえます』って言うんだ。そいつにだけ聞こえるのか、ほかの人たちにはなんにもきこえないんだ。

そしたら、いくらも走らないうちに、6機か7機肉眼で見えたね。

青函連絡船津軽丸(3431トン)

昭和20年7月14日、その日国鉄青函連絡船津軽丸に乗務していた萩原祐定操舵手は、ブリッジの様子をそう証言する。津軽海峡のほぼ中央をただ一隻北上していく津軽丸の乗組員、乗客たちにとっての悪夢は始まったばかりであった。

 昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が勃発すると、日本は石油を筆頭に、天然ゴム、ボーキサイト等豊富な資源が埋蔵されていた東南アジア諸地域を、大東亜開放の名目で占領、植民地化した。それらの物資を日本に持ち帰るため、政府は昭和17年10月6日「戦時陸運の非常体制確立に関する件」を閣議決定、近距離用の沿岸貨物船を南方に振り向け、石炭、銑鉄等の輸送は極力鉄道によるものとするとともに、旅客輸送の制限を方針した。当時、工場、鉄道輸送、発電に必要な燃料はそのほとんどが石炭でまかなわれており、それは国内唯一の自給可能なエネルギー源だった。
 そうして南方に送られた貨物船が連合軍潜水艦に次から次と撃沈されていくと、北海道からの輸送はますます青函連絡船に頼らざるを得ない状態となっていった。政府は、青函丸型貨物専用船の大量建造(計画では第十五青函丸まで、この他補助汽船を第二十鐡榮丸まで)、函館、青森両港の桟橋施設増強、五稜郭、青森両操車場の新設・拡充を実施、日本の戦争遂行能力にとってその重要性は大きな物となっていった。 国鉄の最高責任者だった堀木鎌三鉄道総局長はその著書「総力戦と輸送」のなかで、次のように叫んだ。
「明日の戦に敗北しては、十年後の夢物語に何の意味があろう。現在の国家の要請は唯だ戦争に勝ち抜くことである。『すべて戦争のため』に結集されなければならぬ」

 昭和20年6月26日未明、津軽海峡上空にB‐29が初めて飛来、偵察、翌27日にも白昼2機が北海道を偵察、29日にも津軽海峡、大湊周辺を掠っていった。それまで空襲とは無縁だった北海道、北東北もいよいよ戦禍の中に包まれようとしていた。一方政府は、アメリカ軍の空襲に青函連絡船・関門トンネルを含む鉄道網が維持できるのは概ね2ヶ月間と判断。その2ヶ月のうちに運べるものは運んでしまおうという「国内戦場化に伴う運輸緊急対策に関する件」を閣議決定、運輸省は7月11日から9月10日までを皇土決戦輸送強化月間として、緊急輸送体制へと突入することとなった。
 すでに決戦輸送体制に入っていた昭和20年7月14日津軽丸は2時41分、3時間前に出航した松前丸に乗り遅れた乗客70名(うち小人8名)を乗せて、長声一発を残し霧雨のこぼれる津軽海峡へと向かっていった。

 4時45分津軽海面警戒警報、4時56分大湊地区、5時青森県地区空襲警報発令。さらに5時10分大湊警備府は管内航行全船舶に対して退避命令を発した。
「敵艦爆大湊方面来襲中 日本海航行中ノ船舶ハ西方ニ退避セヨ 太平洋航路ノモノハ北方ニ退避セヨ」
 ちょうど下北半島焼山沖には、第一青函丸、津軽丸、第三青函丸の三船が航行中だった。先頭を行く第一青函丸がまず西に針路をかえ、続く津軽丸も同航、避難港に指定されていた青森県三厩港に向かった。しかし、第三青函丸だけは万一の場合北海道福島港に避難することを決め、やや西に針路を取りつつ津軽海峡に向かっていった。

津軽海峡を西進する艦載機群
炎上する第三青函丸

 第三青函丸と分かれ西進した津軽丸は、今別袰月海岸に錨を下ろした。無線室では藤井煕通信掛が暗号電報に耳を傾けていた。
「函館側にいる松前丸が敵艦載機の攻撃を受け船が危険な状態になっていると緊急信号を何度も打電していたのがスピーカーから飛び込んできました。『あっ、松前丸がやられてる』と通信長以下4人が顔を見合わせたものです。三厩沖に投錨した時刻と船位を船長の命により函館桟橋に通報するため函館の鉄道海岸局を荒木主席通信掛が呼び出しするのですが、何回やっても応答ありません」

すでに、第三青函丸、第四青函丸、第十青函丸沈没。松前丸座礁炎上、第二青函丸、第八青函丸中破。函館桟橋も投弾により被害を受けていた。

青函連絡船空襲はまだその第一段階を終えたばかりであった。

 朝の霧雨を伴った悪天候が徐々に回復傾向を見せる袰月海岸の津軽丸には、陸軍士官を乗せた大発が近づいてきた。津軽要塞竜飛中隊長森嶋健三中尉である。中尉は津軽要塞司令部での砲台長会同に出席するため青森に向かう途中だった。森嶋中尉は津軽丸にそのまま乗船、湾口は危険だと指摘し、三厩湾奥に転錨するように求め、市川末次船長はその指示に従って、11時30分転錨を完了した。
 12時10分津軽海面警戒警報解除。津軽海峡には真夏の日差しが戻っていた。12時30分隣に停泊していた第一青函丸が錨を上げて出航した。12時45分乗客を乗せていたため慎重にならざるを得なかった津軽丸も三厩港を出航。函館に向かった。
 そのわずか15分後、尻屋崎の南東約100マイルに位置したアメリカ海軍機動部隊から114機の攻撃機が津軽海峡を目指して飛び立っていった。
 14時津軽海面警戒警報発令、津軽丸の前を航行していた第一青函丸が反転、三厩港に戻っていった。同10分津軽海面空襲警報発令。津軽丸は単船その名を冠した海峡を突き進むことになる。すでに青森出航から10時間。石炭もボイラー用真水もつきかけていた。
 空襲警報の発令に津軽丸は総員配置となり、緊張が続いた。
 空母ランドルフを発進した第16爆撃機中隊9機を指揮したクリントン大尉は、大間崎を過ぎたとき、前方に津軽丸型連絡船を確認、第一小隊3機を率い攻撃態勢を取った。14時40分クリントン小隊は海上20メートルまで降下、攻撃を開始した。
 船橋屋上に設置されていた25ミリと13ミリの機銃が応戦を開始した。
 萩原祐定操舵手はブリッジ下の便所に伏せている。
「一等のホールの方見たら、男の人と女の人が、ペンキが燃えるものだから火になってるのが見えるんだよ。女の人は髪ダラーって下げて、男の人は口の中に手を入れて『船長、船長』って怒鳴ってあった。まわりが焼けるもんだから、わしも大変だと思って一等の部屋のドアたたいて、入れてくっれって言っても誰も開けてくれないんだよ。それで、一番前の一等の部屋叩いて押したら開いた。おばあさんと男の子がベットに座って、一生懸命手をあわせてあった。『ここにいたら危ないから、ともかくみんなのいるほうへ行きましょう』って誘ったんだけど、『私ここで結構です』って、それでみんなのいる舵取りの部屋に降りたんだ」

津軽丸を襲ったカーチスSB2Cヘルダイバー爆撃機
燃え上がる津軽丸

 第一小隊の攻撃に続いた第二小隊サダル大尉が3機で突入、500ポンド爆弾(225キロ)4発を戦隊中央に直撃させ、船の動きを止めた。攻撃開始から20分。15時を回るころには津軽丸は徐々に船首を持ち上げ始めた。

 無線機を破壊された藤井通信掛は、市川船長、出村一等運転士他乗客十数名と、船首の物置に身を潜めていた。
「船橋の屋上にいた警戒隊員の一人が機銃弾にやられたのでしょう。血だるまになって落ちてきました。その間も爆発音とともに船は何度も激しくゆすぶられます。14時56分頃船が左舷に傾き始めました。出村一等運転士が『船長、船が沈み出しました』というと、市川船長は『そうだな、みんな元気で、がんばろう。退船』と、船長の言葉に一等運転士を戦闘に同所にいた13、4人が次々と海に飛び込んでいきました」 

 救命胴衣をつけられた乗客たちは船舶給仕の案内の元、貨車甲板に集まっていた。やがてそこにも海水が浸入してきた。乗客の中から、陸軍第五船舶輸送司令部(暁部隊)青函支部長の神子田次郎三郎大佐が「模範を示す」と真っ先に海に飛び込んでいった。しかし、大佐が再び浮かびあがってくることはなかった。給仕たちはおびえる乗客たちを次から次と海に突き落としていった。
 やがて、船首を持ち上げた津軽丸は、そのまま沈んでいった。
 
 小さな板切れにつかまって必死にもがいている人々の前に、2機の飛行機が再びやってきた。その1機は赤いマフラーをなびかせるパイロットの顔がはっきり判るほどの低空に舞い降り、人々に機銃掃射を浴びせ始めた。それは3回繰り返されたという。
 第16爆撃機中隊の戦闘は終了。クリントン大尉はその報告書の最後を次のように結んでいる、
「連絡船の沈没点には巨大な流出油と破片が見られるだけで、生存者がいる痕跡はなかった。これらの攻撃は、午前中の空襲で失われた乗員2名と爆撃機4機に対する報復の一部に過ぎない」

青森港で爆弾をかわす翔鳳丸
青森湾で避航を続ける第六青函丸

 その頃、青森側にいた翔鳳丸、飛鸞丸、第二青函丸、第六青函丸の各船も攻撃を受け青森東南の野内に座礁した第六青函丸以外の3船は沈没した。青森側で連絡船攻撃の指揮をとった空母エセックスの第83航空群歴史はその状況を次のように報じている。
「午後、青森湾上空の雲はなくなり、アーター指令が指揮統制した攻撃隊はまさに『運動会』を経験した。4隻の連絡船が確認され、彼らが為しえる全速力での回避的操船法をだし尽くしたにもかかわらず、3隻は沈没し、4隻目は加えられた重度の損害の後。座礁することにより唯一沈没を免れた」

 一方函館側でも第七青函丸が中破、唯一生き残ったのは、三厩港に避難した第一青函丸だけとなった。18時過ぎ函館在勤海軍武官府は函館鉄道管理部に対して「明日ノ空襲ニ備フルタメ在泊十四船舶ヲシテ急遽出航日本海ニ退避セシメ、十五日十二時マデニ敵情ニ変化ナケレバ函館港ニ帰港セヨ」ト命令した。しかし、函館港内に運行可能な船舶は1隻も存在していなかった。

 
 翌15日朝津軽丸の藤井通信掛は、まだイカダに乗ったまま津軽海峡を流されていた。
「ごうごうたる爆音、昨日とは違い天気が悪く視界が利かないので全貌は見えませんが、昨日と同様な光景が展開されているのでしょう。そんなのをぼんやり見ている私達に飛んだことが起こりました。何処を飛んでいたのか一機だけこちらのほうへ飛んできます。皆は慌てて海の中に入りました。筏のロープにつかまり、顔だけ海面に出して敵機の様子を見ています。
 グラマンは筏を目掛けて急降下してきました。そして黒い煙をプウと吐いたなと思うと、ダダッと機銃掃射を浴びせ急上昇して飛び去りました。攻撃してはきません。30~40分過ぎてから又同じ目に遭いましたが、二回とも機銃掃射は余り正確ではありませんでした。ところが、三回目のやつは不幸にも正確でした。敵機を見つけ、例の通り海に入りロープに掴まっていたのですが、私の乗っている方の乗客の一人が左手を撃たれ、私も左足に膝の内側に熱いものを感じ後で、筏の上で見ましたら弾が掠ったのでしょう。膝の内側の肉が白く見えていますが、血はほとんど流れていません。手をやられた乗客はずいぶん苦しんでいますが、どうすることもできません」

 この昼の攻撃で第一青函丸は着底。青函連絡船は全滅した。

 17日も津軽丸生存者の漂流は続けられていた。朝もやの中に恵山岬らしい山影が見えていた。藤井通信掛は筏に乗り込んだ仲間と一緒に板切れで漕ぐことにした。
「正午過ぎ位になって恵山の灯台がはっきり見える所まで近寄れたのです。もう少しの頑張りだと、はげみがついている時、恵山灯台の影から一隻の漁船が現れました。『おい船だ、合図しよう』『手を振れ』、私の被っていた鉄兜の中に燃えそうな物を入れ、火を付けて煙を上げ、大声を上げて両手を振ると、漁船はまっすぐこちらに向かってきます。
『大丈夫か、今ロープを投げるから掴まれ。海に落ちるなよ』漁船の船べりから三人も漁師が手を差し伸べてくれるのですが、筏が波で上下するのと、三日も座ったような状態が続いていたので、足、腰のツッパリが弱くて立ち上がるとふらふらするのです。いよいよ漁船に助け上げられ、抱えられて船室につれこまれました」

 漂流時間67時間。藤井通信掛の空襲はやっと終わりを告げた。
 津軽丸乗員乗客全乗船者176名、生き残ったのは乗員26名、乗客18名でしかなかった。

船名日時位置被害死亡生存
翔鳳丸7月14日15時40分青森市合浦公園北沖1.8キロ沈没4755102
飛鸞丸7月14日15時20分青森市聖徳公園北沖1.5キロ沈没31*123154
津軽丸7月14日15時10分北海道上磯郡狐越岬東方4海里沈没74*26100
松前丸7月14日7時20分北海道上磯町七重浜海岸洞爺丸慰霊碑座礁217495
第一青函丸7月15日14時40分青森県三厩港灯台東方1キロ沈没06565
第二青函丸7月14日15時50分青森市青森漁協北沖1.7キロ沈没224466
第三青函丸7月14日7時30分北海道上磯郡矢越岬南南東3.8海里沈没641579
第四青函丸7月14日6時18分北海道上磯郡葛登支岬沈没532578
第六青函丸7月14日15時30分青森市野内婆子岬座礁314273
第七青函丸7月14日函館港中破08080
第八青函丸7月14日北海道上磯郡七重浜海岸擱坐08080
第十青函丸7月14日7時30分函館港防波堤灯台北北西600メートル沈没07676
亞庭丸8月9日10時30分青森県平内町茂浦東岸沈没0106106
*飛鸞丸の死亡者には大沼船舶養成所生徒、非番乗務1名。津軽丸の死亡者には第四青函丸の加藤機関長(非番)を含む。

各船沈没個所図

敗戦から僅か1ヶ月前、国鉄青函連絡船はアメリカ海軍機動部隊の攻撃により全滅した。連絡船はなぜ攻撃され、どのように沈んでいったのか。日米双方の資料を使い、生存者の証言と初公開の記録写真でまとめた迫真のドキュメント。

定価 3500円 発売 青森空襲を記録する会
       〒030‐0811 青森市青柳1‐6‐1
       電話・FAX 017‐777‐0856