「日本はもうすぐ負ける!
空襲警報が発令されたとき、捕虜たちは収容所の庭に全員整列させられることになっていた。赤く染まった北の空を指差して、俘虜代表フォーリー米海軍軍医中尉がそう宣言すると、捕虜たちからいっせいに歓声が上がった。フォーリー中尉は収容所の実質的副所長の任にあった柴野忠雄曹長にすぐさま殴り倒され、収容所の窓という窓には警備兵たちによって暗幕が張られた。しかし、収容所の頭上を南に向けて飛び去る、B─29の大編隊の轟音は隠しようも無く、捕虜達の興奮は一晩中続いたという。昭和20年7月28日夜、B─29による焼夷弾空襲をうけ、紅蓮の炎につつまれる青森市を北に臨む、八甲田山中、上北鉱山にあった仙台俘虜収容所第十一分所だけは、勝利の喜びにつつまれていた。
昭和15年(1940年)から本格採鉱を開始した日本鉱業株式会社上北事業所(通称:上北鉱山)は、翌16年、高品位の銅鉱床の発見を受けて銅の増産を続け、19年9月には月産銅量1400トンを超える、日本最大の銅山として「神風銅山」と呼ばれていた。従業員も1500人を超え、その半数は朝鮮人労働者で占められていたともいう。その上北鉱山に196名ものアメリカ人捕虜達がやってきたのは敗戦間近い昭和20年7月4日のことだった。
仙台俘虜収容所(本所長:北島利一中佐)は昭和20年4月14日、東北各地にあった9つの東京俘虜収容所の分所、分遣所を統括して仙台市に開設(7月7日岩手県黒沢尻町に移転)され、6月30日現在15ヶ国、3600名余りの捕虜を収容していた。
上北鉱山に6月25日開設された第十一分所の職員は以下の通りだった。
所長 魚住貞一 中尉
奥津三千雄 主計中尉(非常勤)
西塚富弥 軍医少尉(非常勤)
柴野忠雄 曹長
森岡重雄 伍長
沢野節郎 衛生伍長
渡辺喜志美 衛生兵長
通訳 吉成武 一等兵
一方収容者は日米開戦直後に天津、ウェーク島等で日本軍の捕虜となり、中国の上海、北京近郊の豊台収容所での長い収容所生活の後、昭和20年7月4日、第十一分所に到着した。その内訳は、
アメリカ海軍衛生隊士官 1名
アメリカ海軍看護隊下士官 7名
アメリカ陸軍航空隊下士官 5名
アメリカ商船船員 9名
パンアメリカンエアライン従業員 24名(グアム人)
ウェーク島労働者 150名
で、捕虜の大半を占めたウェーク島の労働者には35名のアメリカ国籍中国人が含まれている。
収容所は上北鉱山の北方に位置し、廃校となっていた高森高山國民学校の木造二階建ての校舎を転用して作られ、収容所職員のほかに弘前師管区司令部から派遣された12名の警戒兵が警備を補助していた。
収容所の日課は、
起床 | 4時30分 |
行進、点呼 | 4時30分 |
朝食 | 5時30分 |
労働召集 | 6時 |
昼食 | 12時 |
収容所帰所 | 17時 |
夕食 | 17時30分 |
行進、点呼 | 18時30分 |
消灯ラッパ | 20時 |
ベット点検 | 23時 |
と定められ、捕虜達は主として、奥の沢鉱床での褐鉄鉱の露天掘り作業、一部は食糧生産、薪生産作業を割り当てられていた。
収容者の一人ウエーク島の建設作業員オスカー・レイ ジュニアは収容所での生活を以下のように証言している。
「我々はフキと呼ばれる日本の山に生えている植物のシチュー一杯と茶碗約1杯半の米を食べさせられた。これは1日三回毎日であった。たまに一度、腐った魚が与えられた。そのいくつかにはウジが這い回っていた。2回ほど、牛の内臓が米にかけられた。我々が着いて約2週間で7人が脚気にかかったのが判った。 我々の労働は露天鉱から鉄鉱石を掘り出すことだった。鉱山に行くまでに収容所から約3マイル歩かねばならず、山を約2500フィート以上登らねばならなかった。我々の監督にはそんなに悪くはなかった集団の民間人があたった。頻繁に鉱山から収容所に帰った後、曹長は我々になにか仕事をさせた。我々は木を積み、収容所の周囲を清掃したりとまさに多忙だった。私は一つの例として、一山の木材が我々が十一分所にいた短い間に3度移動されたことを思い出す。 我々の多くが民間人で、軍事的習慣に関する知識が少ないにも拘らず、柴野は日本式の軍事教練を覚えるように主張した。重労働にもかかわらず、彼は毎朝の点呼に我々に体操をさせた。曹長が棍棒や乗馬鞭なしに点呼に現れるのは極めてまれなことだった。彼はいつも日本の規則に服従する必要について長々しい演説をぶった。彼が愚かでバカバカしい規則に飽きることはなかった。彼が演説している間、あるいは点呼されている間、無心で注目し、全て真っ直ぐ前方に意識をさせることが要求された。彼が犠牲者を発見したなら、彼は台を飛び降り、不運な者の顔や頭を殴打し、ハイエナのように笑った。通常、番号号令での失敗も一撃とみなされていた。収容所のほとんど全員が殴られていたから、殴られたものより殴られなかった者の名前を挙げるほうが恐らくやさしいであろう。 またこの曹長は全ての日本人に捕虜が敬礼することに非常に固執した。この男はいつも大きな棍棒や乗馬鞭を持って収容所の周りを歩いていた。8月のある晩、彼は洗濯場で服を洗っていた五人に話し掛けた。五人は飛び跳ねて、直立注目し、彼が望んだ速さでお辞儀しなかった。したがって、彼は並んで正座させた各員を乗馬鞭で横様にたたいた。 曹長によって作られた規則の一つは、全員が兵舎内で靴を脱ぐことだった。8月のある夜、何人かがこの規則に服従することに怠慢し始めたため、収容者全員が一時間無言で気を付けの姿勢を強いられた。 医師が翌日の労働には絶えられないと判断すれば、病院によるのは捕虜の習慣だった。私には病気にかかる不運がなかったが、病人も労働に連れ出されるのが収容所共通の考えだった。8月のある朝、フォーリー医師は、曹長が病人を働かせることを命じたため、怒って仕事を止め、曹長のもとへ行った。彼は曹長に「あるグアム少年は高熱を出している。もし労働させることを望むなら、タンカを出さねばならない」と話した。この時曹長は鞭で彼の胸を打ち、よろめかせていった。「おまえ等アメリカ人は我々の傷病兵を大事にしていない。おまえらは病院船を沈めた。したがって、この収容所で病人かどうかを判断するのは我々日本人である」 私は見ていないが、友人から聞いた話である」
柴野忠雄曹長は捕虜達からタイガーと呼ばれ、恐れられていたという。一方、魚住所長はHarmless(無害)とあだ名されていた。その魚住所長は8月14日早朝、所長室で割腹自殺しているのが発見された。二日前に俘虜二人が逃亡したことに責任を感じると遺書には説明されていたと言う。後任には逃亡捕虜の捜索のため仙台俘虜収容所本所から応援に来ていた小原三郎少尉があたることになった。逃亡捕虜はその日のうちに発見され、その処理を勘案中に終戦となった。
捕虜達は9月12日収容所を去り、収容所はそのわずか2ヶ月間の役目を終えた。
戦後、捕虜達からサディスト、タイガーと恐れられていた柴野曹長は前勤務地の直江津俘虜収容所(東京俘虜収容所第四分所)での捕虜虐待の責任を問われ、横浜BC級裁判で死刑判決を受けた。1948年11月6日、獄中でキリスト教に改宗した柴野曹長は、同室の横浜俘虜収容所(東京俘虜収容所第一派遣所)長西澤正夫大尉とともに絞首台に上った。二人は賛美歌を合唱し、君が代を歌い、「神の国日本万歳」「祖国万歳」を三唱して刑場におもむいたという。
上北鉱山は1973年6月閉山。全ての建物は取り壊され、そこにかつて捕虜収容所が存在したことを物語るものも何一つ残っていない。
仙台俘虜収容所国籍別収容者
(1945年9月1日現在)
所名 | 所在 | 就労地 | アメリカ | イギリス | オランダ | カナダ | オーストラリア | ニュージーランド | フランス | ノルウェー | デンマーク | アイルランド | ポルトガル | チェコスロバキア | ルーマニア | ポーランド | ベルギー | 計 |
第一分所 | 福島県岩城郡湯本町 | 常磐炭坑株式会社 | 3 | 231 | 135 | 198 | 567 | |||||||||||
第二分所 | 福島県岩城郡好間町 | 古河鉱業株式会社好間鉱業所 | 16 | 102 | 46 | 1 | 1 | 3 | 1 | 4 | 66 | 2 | 1 | 1 | 1 | 245 | ||
第三分所 | 宮城県栗原郡鴬沢村 | 三菱炭坑株式会社細倉鉱業所 | 234 | 45 | 2 | 281 | ||||||||||||
第四分所 | 岩手県上閉伊郡甲子村 | 日本製鐵株式会社釜石鉱業所 | 40 | 56 | 93 | 198 | 8 | 395 | ||||||||||
第五分所 | 岩手県釜石市矢ノ浦町 | 日本製鐵株式会社釜石製鐵所 | 78 | 86 | 168 | 1 | 13 | 5 | 351 | |||||||||
第六分所 | 秋田県鹿角郡尾去澤町 | 三菱鉱業株式会社尾去澤鉱業所 | 494 | 50 | 1 | 545 | ||||||||||||
第七分所 | 秋田県北秋田郡花岡町 | 藤田組花岡鉱業所 | 245 | 43 | 288 | |||||||||||||
第八分所 | 秋田県鹿角郡小坂町 | 藤田組小坂鉱業所 | 235 | 8 | 99 | 342 | ||||||||||||
第九分所 | 山形県酒田市本町 | 日本通運株式会社酒田支店 | 15 | 248 | 5 | 26 | 294 | |||||||||||
第十分所 | 岩手県和賀郡岩崎村大字山口 | 東北電気製鐵株式会社和賀川工場 | 188 | 104 | 3 | 2 | 1 | 2 | 300 | |||||||||
第十一分所 | 青森県上北郡天間林村大字天間館 | 日本鉱業株式会社上北鉱業所 | 196 | 196 | ||||||||||||||
合計 | 1744 | 930 | 505 | 445 | 93 | 5 | 1 | 5 | 1 | 4 | 66 | 2 | 1 | 1 | 1 | 3804 |
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