陸軍青森飛行場格納庫

陸軍青森飛行場格納庫

所在地青森市大字羽白字池上177
現在名称JAあすなろ農業協同組合肥料倉庫
施工者阿部重組
建築年昭和12年(1937年)

昭和初期5.15事件前後に東北地方をおそった大凶作に対し、政府は農民救済土木事業の一環として東京(羽田)-札幌間の定期航空路開設を計画、青森、仙台、札幌への飛行場新設を昭和7年臨時帝国議会で決定した。青森飛行場は青森市の西側、当時の東津軽郡油川町に設定され、昭和7年(1932年)11月17日着工、翌8年3月30日竣工した。以後、青森県唯一の民間飛行場として、県内旧制中等学校に設けられた滑空部(グライダー部)の訓練場、陸軍機の演習場にと利用され、それまでほとんど飛行機を見ることのなかった青森市民の航空意識の向上に活用された。

当初予定されていた東京-札幌間定期航空路が開設されたのは昭和12年(1937年)4月1日。国策会社である大日本航空輸送株式会社によりフォッカー・スーパー・ユニバーサル型機(6人乗り)で開始された。

東京-札幌間時刻表(昭和12年6月1日改正)

発地発(下り)着(下り)発(上り)着(上り)
東京09:00  14:00
篁吝床11:2011:1012:0011:50
青森13:2013:1009:5009:40
札幌 15:0008:00 

運賃:東京-青森35円、札幌-青森20円、仙台-青森17円、東京-札幌55円

当時国鉄で最速13時間かかっていた東京-青森間が僅か4時間という超スピード時代の到来だった。ほぼ労働者の平均月収分に相当する高額な料金だったが、12年4月中の輸送実績は上下便合計6便が欠航、乗客245名を輸送したという。後に、スーパー・ユニバーサル機から、双発の三菱エアスピード・エンボイ型(8人乗り)へと機種も代わり、さらなる発展が期待されていたが、日本軍の仏印進駐後の航空機逼迫を受けて、昭和15年7月9日逓信省による停止命令により航空路は閉鎖され、やがて、飛行場も陸軍に接収された。

太平洋戦争も末期になると、飛行場は市民の勤労奉仕により大規模に拡張されたが、航空部隊が配置されることはなく、八戸に本部を置いた第66飛行場大隊青森分遣隊が駐屯しただけで、本土決戦に備えての機体、燃料、資材等の隠匿場所として利用された。

昭和20年7月15日、8月10日数次にわたるアメリカ海軍艦上機の攻撃を受け、その折に撃ち込まれた機関砲弾の弾痕が今でも残っている。

終戦直後青森飛行場でアメリカ軍の点検を受ける陸軍一式戦闘機隼