三沢海軍航空隊大格納庫
所在地 | 青森県三沢市後久保アメリカ空軍三沢基地内 |
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現在名称 | 三沢アメリカ海軍基地施設車両倉庫 |
施工者 | 大林組 |
竣工年 | 昭和17年(1942年)2月 |
日中戦争が泥沼と化しつつあった昭和13年12月、第74帝国議会に帝国海軍は来るべき対米戦に向け北太平洋方面の防衛強化を図るため、青森県三沢と宮城県松島に陸上攻撃機部隊配置を計画した「昭和14年海軍軍備充実計画」(④計画)を提出した。三沢には陸上攻撃機3飛行隊(常用36機、補用12機)を配備し、航空機購入費、施設建築費、整備費、兵器購入費等合計31791611円の予算が承認された。
昭和14年9月から横須賀海軍建築部大湊出張所の指揮により、青森刑務所の囚人や、地元青年団員等が投入され工事が開始された。格納庫等の上モノは大林組が受注したが、日中戦争に伴う労働力、資源の枯渇により工事は遅れに遅れ、格納庫(大型2棟、小型4棟)の新設工事は昭和15年11月5日-同17年2月末、さらに航空隊庁舎等の新築工事は昭和16年3月29日-同17年3月末までを費やした。三沢海軍航空隊(司令官菅原正男海軍中佐)は、昭和17年2月1日に兵力陸攻3個飛行隊(48機)、兵員合計1190名で開隊したが、結局、飛行場の施設工事が間に合わず、訓練等は原隊の木更津基地で行われることとなった。
昭和17年7月、三沢航空隊は木更津からサイパン島アスリート飛行場に移動、次いで8月8日ラバウルに進出、同日、第一次ソロモン海戦に参加、以降いわゆるラバウル航空隊の一員としてアメリカ艦隊を雷撃する任務についた。
昭和17年10月1日には第705海軍航空隊と改称、18年1月29-30日にはレンネル島沖航空戦に参加、アメリカ重巡洋艦シカゴを撃沈させる戦果を得たが、30日出撃の11機中10機を喪失、血みどろの消耗戦を戦い抜くこととなった。4月18日には聯合艦隊司令長官山本五十六大将の乗機に同航空隊機が選定され、アメリカ軍によって撃墜される悲運にもあった。
19年3月にはラバウルからトラック島に移動、同4日攻撃第706飛行隊に改編、グアムに移動した。6月22日サイパン島のアメリカ軍陣地に向け可動機3機で攻撃を実施、全機未帰還となり、航空部隊として消滅した。(地上部隊もグアム島の戦闘でほぼ壊滅した)
三沢航空隊が去った後の三沢基地は、第201航空隊、第252航空隊などの訓練基地として活用されていたが、昭和20年春以降には、アメリカ軍による本土空襲から疎開してきた横須賀海軍航空隊審査部が駐屯、日本初のジェット推進機橘花のネ-20エンジンの実験や、長距離爆撃試作機連山等の試験が行われていた。また、サイパン島のB29基地への強襲を企図した剣作戦の作戦基地として、多くの隊員が訓練にあたっていた。
三沢飛行場終戦時保有機数
戦闘機 零戦6、雷電4、紫電6
陸上攻撃機 九六式陸上攻撃機1、一式陸上攻撃機11
艦上攻撃機 九七式艦上攻撃機2、流星5、天山5
爆撃機 九九式艦 上爆撃機16、彗星5、銀河8
偵察・哨戒機 東海2、彩雲6、二式艦上偵察機1
練習機 九三式中間練習機8、零戦(練)2、九〇式機上練習機1、
白菊4
試作機 連山2、烈風1、明星1
終戦後三沢飛行場はアメリカ第81歩兵師団により占領、以来大規模な拡張が続けられ、冷戦時には極東の共産国への核任務を有する戦闘機部隊が配備されるなど対ソ作戦の最前線として使用された。現在ではアメリカ空軍でも5飛行隊しか存在しない対レーダー網制圧任務を有するWW飛行隊2隊が配備され、対イラク作戦にも参加するなど常に「槍の穂」としての機能を維持している。
帝国海軍時代の歴史を物語る施設は大格納庫3棟が残されているだけである。