1945年(昭和20年)7月27日深夜、2機のB29が青森市に飛来、照明弾とともに6万枚ものビラを撒きました。それには数日の内に、青森市を含む11の都市のうち4つか5つ爆撃するから、避難するようにと書かれていました。
翌28日21時15分。青森県地区警戒警報発令。22時10分には空襲警報に変わりました。この頃、前進基地の硫黄島を飛び立ったB29は、仙台湾から男鹿半島へ抜けると、続々と鰺ヶ沢附近から青森市にむかっていました。
やがて、灯火管制で暗闇に包まれた青森市の上空に現れた62機(うち1機は投弾失敗)のB29は、照明弾で市内を照らした後、焼夷弾の投下を始めました。
予告された青森空襲です。
爆撃は22時37分から23時48分まで続き、黄燐を入れ殺傷力を高めたM74六角焼夷弾38本を束ねたE48焼夷集束弾が投下されました。その数は2186発におよび、実に83000本もの焼夷弾が降り注いだのでした。
雨のように降り注ぐ焼夷弾は、空中で飛び散り、花火のように美しく見えましたが、地上に達すると、たちまち建物を炎でつつみこみました。燃え狂う火炎、異様なにおい、巻き上げる火の嵐、窒息しそうな煙。猛火は、アスファルトの道路もドロドロに溶かしていきました。
その中を市民は逃げ回り、逃げ遅れた多くの人々が無念の死をとげました。特に、日ごろ指導されていた通り防空壕に避難した弱者の多くは、逃げる時期を失しなったのでした。
僅かのコンクリート建物と土蔵だけが残った市街
東北地方最大の被害を青森市に与えたB29は、爆撃が終わると直ちに機首を南に向け、基地のあるテニアン島に戻っていきました。
29日0時22分空襲警報解除。ついで警戒警報も解除されました。わずか1時間11分の空襲で、青森市は市街地の81パーセントを焼失(米戦略爆撃調査団調べ)、市民の犠牲については、昭和20年8月3日付け青森県知事発防空総本部宛報告では、死者731名、重傷者40名、軽傷者242名、行方不明者名、焼失家屋15111戸と報告されています。(第一復員局法務調査部第四科調査では994名の死者)
被害を大きくした原因は、
①アメリカ軍艦載機が青函連絡船を攻撃した7月14、15日以後、市内から疎開・避難する市民が続出したため、同18日県当局が「これら疎開者に対しては断固たる措置を取る」と声明、これを受けた青森市役所が21日「逃避者は28日までに復帰しなければ配給を停止」すると布告、市民が続々帰市した夜に空襲が行われたこと。
②空襲前日アメリカ軍が爆撃予告ビラ約6万枚を撒いたものの、憲兵隊や警察により読むことを禁止・回収され、警告が伝わらなかったこと。
③火叩きとバケツリレーを主とした日頃の防空訓練と、手造りの防空壕では全く無力だったこと。(防空壕内で死亡した弱者がもっとも被害が大きかった)
④投下されたM74焼夷弾が、従来型を改善した新型焼夷弾で、青森市がその実験場となったこと。(アメリカ戦略爆撃調査団は「M74は青森のような可燃性の都市に使用された場合有効な兵器である」と結論しています)
をあげることができます。
夜が明けると、青森駅から堤川が見える、一面の焼け野原。70166名の罹災者(昭和20年度青森市長報告)は呆然と立ちすくむだけでした。
敗戦僅か2週間前のことでした。